公益財団法人 奈良県体育協会
トピックス
団体・組織
加盟団体
事業内容
スポーツ施設
フリーノート
安全保険
専スポ指導員

 


飛び込みを始めた“きっかけ”  
 生後8ヶ月から中学2年生までスイミングスクールで競泳をしていました。14年も続けてなぜ飛び込みに変更したかというと、スイミングで一緒だった友達が飛び込みを始め、誘われたからです。最初は断ったのですが競泳の方もあまりタイムが伸びなくて、とうとう次の年に石川県の松任市で飛び込みを始めることになりました。初めて飛び込んだ時は、恐怖心よりもむしろ好奇心でいっぱいだったため、すごく楽しいスポーツだと感じました。運動神経はいい方だったので、すぐに宙返りなどしていました。松任では3ヶ月くらい飛び込みをして、親の転勤で兵庫県に行き、宝塚市で本格的に飛び込みをすることになりました。宝塚のスイミングスクールには1m、3mの飛び込み台があり、日本では数少ないスイミングスクールでした。宝塚には、今では世界のトップクラスの寺内健という選手と、日本代表のコーチがいます!そんな好条件な中で飛び込みをしたら、間違いなく上手くなるだろうと信じ日々厳しい練習に耐えてきました。

初めての全国大会  
 初めての全国大会は、僕が飛び込みを始めて約10ヶ月後の全国中学校大会(通称、全中)でした。僕が通っていたJSS宝塚は、飛び込みの名門中の名門で、つねに日本のトップに立っていたのです!それを知った僕は「恥ずかしい飛び込みは出来ない」と思い、試合に臨みました。今までの競泳の試合とは全く緊張感が違い、立ちすくみそうになったのを今でも覚えています。結果は8位入賞でまあまあ良い結果でした。その2週間後にジュニアオリンピック(通称、JO)が行われました。JOでは7位と一つ順位を上げることが出来ました!今年で競技歴9年目の僕ですが、未だにその緊張感に慣れず苦戦しています…。これからは社会人として競技をやっていくので、メンタル面をもっと鍛えて試合に臨みたいと思います!

FINAワールドカップ遠征記  
 2001年6月(当時、天理大学2回生)、中国の西安(シーアン)という地で、FINAワールドカップが行われました。中国には、合宿で上海に行ったことがありましたが西安という所へは初めて行きました。空港から現地に向かうにつれどんどん建物が少なくなり、田舎町にたどり着きました。「本当にこんな所で試合が出来るのだろうか?」と不安になりました。初めての世界大会で心臓が破裂しそうなくらい鼓動をたてていました。なんといってもオリンピックの金メダリストの選手がいたからです。自分のレベルが世界にどれくらい通用するのか楽しみにしていたのですが、圧倒的な差で突き放されました。改めて世界の高さというものを実感しました…。飛び込みの種目には、最近ではありますがシンクロダイビングが試合で行われるようになりました。シンクロダイビングとは2人が同じ演技をして、その同調性を競います。僕はその3mのシンクロダイビングで3位入賞することが出来ました!初出場でメダルを獲得できた事は、たぶん一生の思い出になります!メダルを取ることの喜びがあるから、つぎも頑張ろう!という気持ちになれるのだとおもいます。

日本学生選手権  
 僕の大学生活最後の試合が、日本学生選手権(通称、インカレ)でした。インカレは各種目に出場選手が3名と人数が決められています。そして3m、10mの予選、決勝の合計得点で団体戦を競います。今回の試合では、まだ個人で全国チャンピオンになったことのない僕にはチャンスともいえる試合でした。試合2日目に3m、そして最終日の4日目に10mという具合に試合が進行していきます。3mの試合ではミスが多く、大きな演技が出来なかった。何とか予選を2位で通過しました。決勝ではミスは少なかったが、予選の時に1位との差があった分、僅差で敗れてしまいました。最終日の10m高飛び込みでは、以前から手首を痛めていたので、あまり練習が出来なかった分不安でいっぱいでした。しかし3mの雪辱を果たす為、一本一本集中しようと試合に挑みました。その試合ではやけに視野が広くなり、いろんな所に目が行きました。(今までの試合でも同じように集中してはいたのですが、一点にしか目が行ってなかったのです)気づいたら最後の種目を飛び終え、優勝していました。覚えている事は、試合の最中に「勝ちたい、優勝したい」と、ずっと頭の中に言葉が流れていたことでした。勝ちたいとばかり思っていたら、逆に力が入ってしまうというふうに僕は思っていたのですが、その試合では不思議と体が軽く動いたので、やはり「勝ちたい」という気持ちが一番大切なのだと感じました。